Swimming in the cloud
Swimming in the cloud 6月5日 私は我(が)の強くない人間である。私は他者を通じてしか自己を知ることができない。自己がなければ他者は存在しないのに、他者との関係の中にのみ自己を見出している。...
View Article生きるということは妥協の連続なのか。
生きるということは妥協の連続なのか。 6月9日 生きるということは妥協の連続なのか。大事なことはどこに妥協の接点を見つけるかということである。・・・ 未熟である己れを他者の前に出すことをおそれてはならない。...
View Article一切の人間はもういらない
一切の人間はもういらない 6月19日 一切の人間はもういらない 人間関係はいらない この言葉は 私のものだ すべてのやつを忘却せよ どんな人間にも 私の深部に立入らせてはならない うすく表面だけの 付きあいをせよ 一本の煙草と このコーヒーの熱い湯気だけが 今の唯一の私の友 人間を信じてはならぬ 己れ自身を唯一の信じるものとせよ 人間に対しては 沈黙あるのみ ・・・ サビシイデスネ―...
View Article詩よ どうか私をなんとかしてくれ!?
詩よ どうか私をなんとかしてくれ!? 6月21日 何だか惰性でこのノートにむかうようで書くのがいやだが、まあ一応書いておくことにする。・・・...
View Article生への未練がまだあるのです。
生への未練がまだあるのです。 6月22日 また朝がやってきた。十九日以来の、このどうしようもない感情、うさ晴らしに酔うだけ酔って、すべてを嘔吐し忘れた方がよかったのかもしれない。・・・ このノートに書いているということ自体、生への未練がまだあるのです。ところが、では生きていくことにして何を期待しているのかといえば、何もないらしいということだけいえる。...
View Articleありがとうございました。
ありがとうございました。 高野悦子さんは1963年1月2日に14歳になり、その日から日記の記述を始めています。しかし1月28日の日記には、「今、自殺してもかまわないと思っている。残念とは思わない。」と記しています。なぜそう考えるようになったのでしょうか。そして予期していたかのように、数年後自殺してしまう。...
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このブログは現在休止しております。 このブログの構成は高野悦子さんの『二十歳の原点』『序章』『ノート』を時系列に紹介しております。最初の2つの記事は自殺原因の私的考察です。その後はほぼ日記の記述順となっております。詳しく理解したい方はアーカイブスから入り、最初からお読み下さい。 尚、より詳細に理解したい方は、図書館の利用、書店で購入下さい。
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